大連の思い出

2015年9月14日 (月)

スポーツあれこれ

Beach_parasol_3私は大連で生まれたが、小学生のころ、それまで何回か夏家河子、星が浦、老虎灘などの海水浴場に学校から行ったが、最後の老虎灘で初めて1~2m泳げとても嬉しくなった。

ところがその直後、沖合で轟音と共に高く水柱が立ち、大きな商船が湾内に避難して来た。潜水艦に駆逐艦が爆雷を投下したそうで、水泳は直ちに中止、太平洋戦争の開戦直前か直後だったろうか定かでない。

それから帰国後も食うことに一家必死で、余裕が出来たころはすっかり成人、何となしに水泳はやらず今日に至った。折角伊豆の海に来たのに、残念な気持ちもあるがもはや手遅れ。

終戦後中学1年に入学、半月余で引揚となったのだが、その中学でのこと。野球部?で人が足りず、急遽お前入れということでバッターボックスに立ったが、猛烈なスピードの球に竦んで打つどころでなく、直ぐ外されてしまった。

以来野球は今日に至るまで大嫌いになり、王や長嶋、野村監督など人柄は面白く好きだが、野球は一切見ない。

植物好きだったので、42歳から山歩きを始め、約20年、5千キロを歩いた。ホームページ 青山白雲では「気軽に始めた山登りだったが、そのうち山狂気となり、ピークハンター気味となるが、沢屋、岩屋を避け、尾根屋、藪屋を好み、偶に家族と以外単独行を通した」とある。

伊東に来て伊豆の山々を少し登ったが、ナンバー2の万二郎岳は登ったが、最高峰の万三郎岳は未登。82歳ともなると去年からガクンと来て体力的にもう無理かも。せめて西伊豆、南伊豆遊歩道をと思っている。

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2015年5月23日 (土)

敗戦間近の思い出

Airplane22日の東京新聞で、2500万人知らぬ間に義勇隊の記事。敗戦も近いころ、破れかぶれの状態になった政府、軍が賭けた総動員の記事で、モンペの婦人たちが砂浜で竹槍訓練をする様子の写真も載っている。誰もこんなものでと思いつつ、やるしかなかった、哀れなわが日本のその頃の状況だった。

広島では4千人余の人々が他所より入り、延焼を防ぐための建物疎開と称しぶっ壊す作業中、あの弾が落下亡くなったと知る。今になって聞くとなんと愚かな事となるが、当時は皆真剣に毎日、ひたすら戦争のために出来ることをと必死だったと思う。

当時私は大連で小学校(戦時中は国民学校)5年生位だったと思うが、授業そっちのけでお手玉で手榴弾の投擲、モールスや手旗信号の訓練などを連日やっていた。

飛行機は教室に張られた写真を見乍ら、名前と音を拡声器が流す。なんとスマートな敵機よ、それに比べダサイ友軍機と正直心中思った。

周水子飛行場に行き、弾運びをしたが、皆で話しながら作業中、突然現れた将校に「貴様等たるんどる!」の大音声に、縮上がったのが強烈に記憶されている。

飛行機の音は色々聞かされた訳だが、実際やって来たのはB29。ウォーン、ウォーンと不気味で、翌日の新聞にウン、ウンとあり、一寸違うなと思った。

そして敗戦、茫然自失の状態となったが、やがてアメリカの艦載機が見た事も無い大量に低空飛行。一週間という猛烈な速度で到達した、ソ連軍の戦車の轟音が市内に響き渡り、あゝ負けてしまったのだと実感した。

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2015年3月16日 (月)

阿川弘之自選紀行集

Book阿川弘之自選紀行集

14日、北陸新幹線が金沢まで開通、引換えのように札幌迄の寝台特急北斗星が廃止され、最後を見んものと3千人もの鉄道ファンが上野駅に詰掛けたとか。

私は鉄道ファンでは無いし、山以外特に旅行好きでも無かった。暇の出来た今は体力的に無理となり残念だ。代わりに峠、街道など紀行本を集め、順次読もうかと思っている。

内田百閒の阿呆列車物は国内だが、阿川弘之の南蛮阿呆列車から読みだしたのだが、中々の鉄道ファンで面白く読める。宮脇俊三のも大分集めた。

この自選紀行集は船と鉄道で「北斗一号試乗記」は正しく今回廃止されたものであり、阿川さんの感慨如何許りであろうか。新幹線に地元も旅行者も熱い眼差しだが、寝台車を次々廃止するスピ-ド優先の風潮は阿川さん好みではないだろう。

大連生まれの私が興味深かったのは「なつかしの大連航路」だ。遠藤周作と行っている。遠藤さんと阿川さんの姉の家が私の家の近くだったとは・・・。未だ文革が終わった辺りらしく、高層ビル乱立の前だが、みすぼらしい街の有様に2人とも幻滅したようだ。(坂の向こう辺りがその隣町

しかし今行ったらもっとガッカリだろう。同じ町内だったらしい清岡卓行は「アカシヤの大連」でそれを予想したかのようなことを書いている。私の家もマンションになったようだ。(参照) ★★★★★

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2014年2月20日 (木)

懐かしの我家

西澤泰彦著「大連都市物語

大連に生まれた私だが後述するように、今の大連には余り行く気がしない。昔の幼い頃の良き時代の思い出だけ大切に取っておきたい。そんな思いでこの本を開く。建築史の学者で、かつての大連の建築物に焦点を当てたこの本。

大きな建物は子供の頃とて私も良く知らないのまで、くまなく収録されているようだが、住宅建築も少しある中、全く期待していなかった、我家の写った白黒の小さい一枚を見つけ驚喜した。

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写真をクリックすると拡大

左は弥生ヶ池公園で、路を隔てて右下の2戸1棟の右半分が我家である。1933年ここで私は生まれた。写真は1920年代とある。母の話では、引越しを繰り返しやっと落ち着いたのがここといっていた。南に山を背負った大きな公園があり、路も広いが当時とて殆ど車も通らず、静かで明るいのが気に入ったのだろう。

中央の橋は公園の池からの川に架かったもので、当時手前の山の彼方の集落から中国人(満人)の勤め人が沢山市内へ通っていたが、何人かが橋の左端から出入りするのを目撃した。ある日下りてみて人糞が沢山あり辟易するが、帰国してそれは便所もろくにない彼等がやったことと推測した次第だ。

橋の右手、電柱のある所は戦時中、我家の防空壕だった。一回きりのB29の空襲の時入った。その後豪雨で崩れ、隣組の人達が協力してくれ、家の前の公園に新しいのが完成して間もなく敗戦となった。

我家一帯は市営住宅、川向こうといって先は高級住宅地だった。「アカシヤの大連」の清岡卓行も直ぐに住んでいたようだ。張作霖事件の河本大作の豪邸が出来、戦後はソビエトに接収され、女性の将校が歩いていたのを見たことがある。

公園沿いの坂道は途中から急になり人力車でジグザグ登ったり、マーチョという馬車で下ったこと等思い出す。満鉄の出張が殆どだった父の駅までの同乗だったのではないだろうか。

上り詰めた右の建物は、天理教の道場だと思う。その先に同級生の女子の住む奥深い屋敷は正金銀行支店長だとかで、皆で呼び鈴を押して逃げたりした。石蹴り、縄跳び、トンボ捕りと道の上で遊び、冬は池でスケートと思い出が一杯詰まっているが、今はマンション林立、川も埋め立てられたと。路上駐車も一杯で、昔日の面影はないようだ。

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2011年10月22日 (土)

出会い

Shinkansen_2こんなアクセスの少ないブログだが、それでも今迄にいろんな出会いがあった。伊東に来る自衛艦の写真を結構載せたが、ある艦の乗組員の家族の方から、コメントをいただき、コピーさせてとのこと。喜んで返事差し上げた。

最近の奇遇は、何といっても私の生まれた中国、大連市での住まいでのことだろう。検索で来られたであろうブログのカテゴリー「大連の思い出」欄を見て同じ街の方がコメントされた。なんと3軒先のお宅で、私より幾つか下だったその方に朧な、そしてその方の祖父には、はっきりした顔まで浮かぶ記憶があったのだ。

お互いに驚き、そして昨日愛知よりわざわざ伊東に来られ、お会いした。ちょっとした感動再会であろうか。小さい頃の事とて、頼りない定かでない記憶を手繰り寄せての話し合いだったが嬉しかった。

引き揚げまでの仮住まいは、市の別の所に移動させられたが、同じ辺りであったらしい。考えてみれば町内だから当然か。大連にも行かれたそうで、写真など拝見、短い時間ながら楽しいものとなった。

働いていた頃、小学校の同窓会から、幾度も誘いがあったが行かなかった。リタイアした今気持ちに余裕が出来て、行く気になり探したが、皆高齢で解散したか連絡がつかない。そんな時だったので嬉しい出来事であった。

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2007年6月 4日 (月)

(大連の思い出27終)舞鶴

Misoshiru 舞鶴港に着いた。景色は寒々として、満洲の寒さと又違ったピヤピヤと底冷えのする気候だ。収容所に入ると先ずアメリカ兵に頭からDDTを振掛けられた。大広間に1泊。寝具は毛布だけだが1人10枚位迄いいという。

お汁粉をどうぞの放送でゾロゾロと食堂へ入ると、そこにはお椀の底に冷たい汁が1~2cmあるだけだった。皆笑いながらアッという間に啜り終り、又広間にゾロゾロ帰ってゆく。私の見た範囲では文句を言う人は一人も無かった。

ここから母方の親戚の多い京都は直ぐだ。京都でお互いに世話になった誠一さんとも別れ(たしか京都の呉服屋の番頭さんだったと思う。ぴったりの物腰風采の人だった。)祖父母達と我々は、それぞれ別の親戚に厄介になる。

1週間位経った頃、祖父が亡くなったとの知らせが届いた。帰って来る時一寸した荷物も持つのを嫌がってたのは、身体が弱ってたせいだったのかと、これ位持って下さいよと文句を言っていたのが悪かったと皆思った。

母は京都府庁の嘱託、姉は進駐軍の食堂のウェイトレス、私は鉄工所の雑役と3人働いてなんとか食える毎日だった。1年後印刷局に勤めていた兄に呼ばれて小田原に、間もなく父がシベリヤから帰って来た。

その後藤原ていさんの「流れる星は生きている」 で、38°線を超える時の想像を絶する苦難の記録を読み、涙が止まらなかった。それに比べ一人も欠けず再会できた私達は運命に感謝しなければならない。

あの懐かしい大連の家だが グーグルアースで見ると、あの一帯の市営住宅は数階建てのアパートに建て替えられたらしい。"川向こう"は日本人街として保存されているがこれも立て替えるとか。

「かつての日本の植民地の中でおそらく最も美しい都会であったにちがいない大連を、もう一度見たいかと尋ねられたら、彼は長い間ためらったあとで、首を静かに横に振るだろう。見たくないのではない。見ることが不安なのである。もしもう一度、あの懐かしい通りの中に立ったら、おろおろして歩くことさえできなくなるのではないかと、密かに自分を怖れるのだ」。  清岡卓行「アカシヤの大連」より。

大連出身者が里帰り?して、空き地になったかつての自宅の前で写真を撮っているのを見たが、私には出来ない。記憶の奥底にそっと仕舞っておきたい。

蒙古風吹く度想う大連の家で一日掃きいし母を

銃突きて女を出せとソ連兵二階に逃ぐる祖母に迫りぬ

腕時計ないかと手真似のソ連兵腕にはすでに数個着けおり

中国の子に訳も無く脚蹴られ挫きて逃げし敗戦悲し

引揚の港に着きて日の丸の船見し感動戦時に勝る            

終 Boy11_1                          

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2007年5月30日 (水)

(大連の思い出26)引揚

Sofa_1 日本人は市の一隅に片寄せられ、中国人に家を明け渡すことになった。それで家財道具を売ることになり、中国人の夫婦が買い付けに来た。二束三文で売り渡した母は相当なショックだったらしく、その後長いこと口惜しがっていた。

斯くして身の回り最低限の物だけとなり、移り住んだ家は1軒の8畳、6畳、4.5畳3間に3家族、12人が住むことになった。耳の聞こえがとても遠くなった祖父だが、ふつつか者ですがよろしくと他の家族に挨拶していた。

幾らも居ないうちにいよいよ引揚は開始された。夕暮れの中を日本人を満載したトラックは相当のスピードで突っ走る。これで大連をこの目で見るのは最後な訳だが、誰も景色に目をくれようともしなかった。港の倉庫に着くと、そこは既に一杯の人で溢れ中に入れない。夜になりシンシンと冷え込んできて、やっと何とか割り込むことが出来た。

ソ連兵に順々に呼ばれ別室へ。その直前威張った感じの日本人通訳が現れ、軍票を持っているものはここで出せ。もし隠したまま後で判ったら全員帰さないという。慌ててリュックから物を床にブチ撒け軍票を取り出すが、混ざっていた写真等を収納する間もなく、次の部屋へと急き立てられ、写真は全部失う事となる。

桟橋に横付けされた引揚船に、掲げられた日の丸の旗を見た時の気持ちは、何とも言いようがない。戦時中あれだけ国家総動員で動いて来たが、この時ほど日の丸に感動したのは無かった気がする。

船が岸壁を離れる時、ソ連兵に混じって肩を怒らす通訳に皆馬鹿野郎!と罵声を浴びせた。約1週間の船旅は船倉での蚕棚のようなギュウ詰め状態で、私はトイレ以外1歩も外に出なかった。そのトイレだが船から張り出して遥か下が海で縮み上がり、私は上陸まで我慢してしまった。

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2007年5月25日 (金)

(大連の思い出25)祖母の甥

Byoin 大連湾の対岸の柳樹屯に陸軍病院があり、満州に応召して病気になり、入院していた祖母の甥に当たる誠一さんが家を頼って来た。我が家は年寄り女子供なので、優男ではあるがとても力強く有難かった。昔から祖母が可愛がっていた人らしい。

公園で首吊りがあった。人の死んだのを初めて目撃してショックだった。又学校帰りの事だったが、塀にもたれて座っている男が、虚ろで絶望的な表情で私を見上げた。走って帰りあの人死んじゃうよ!何とかしてと告げた。誠一さんが様子を見に行ってくれ、更にお握りを持って行ったら礼を言って食べ、当ても無く歩き出したそうだ。

中国人による略奪の動きを察知した場合、盥、洗面器、バケツ等を皆で叩く申し合わせがあった。ある夜誠一さんが夜の巡回に当たり玄関を出た途端、青龍刀を振りかぶって来たそうだ。大声を上げると隣家のご主人がポストの口から笛を吹き、町内が一斉にバケツ等を叩いて追い払った。誠一さんは峰打ちで打撲傷ですんだ。

翌日祖母が隣のご主人と話をしている。有難うと言ったらしい。戦前からおばあちゃんと言ったとかでずっと口を利かなくなり (参照) 、我々も付き合い禁止状態だったが、可愛い誠一さんを救ってくれた事ですっかり機嫌を直したようだ。我が家では歴史的な事件だと囁き合った。

ある晩は寝ていて、暴徒が来るとの知らせがあり慌てて着替え、町内一斉に逃げ出す事になった。1kmも逃げたろうか。100人近い集団が深夜一言も口を利かず、ヒタヒタと走る様はなんと異様な光景だろう。保安隊が来て帰って大丈夫となった。

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2007年5月23日 (水)

(大連の思い出24)立場変わって

Kung_fu 生産活動が殆ど止まったので皆売り食いになり、我が家も母と姉が服など日用品をどこかの市場に売りに行く毎日となる。その表情は朗らかで、こんな時女は逞しいなと後に思った。中国人の行商がパッタリと来なくなり、代わって日本人が色んな物を売りに来た。もろみはいらんかねーと遠くから良く透る声の人がいた。

中学は皆無試験で全入、私は市の西郊に近い1中に通学する事になる。ある日級友と2人で歩いていたら、あの怖かった小学校の担任と出逢った。何とも言えない弱々しい表情で、元気かと訊いた。後友達は先生は八百屋をやっているらしいと言った。それが先生と会った最後だった。

1人で通学している時、向こうから来た中国の少年3人と擦れ違う時、いきなり足蹴にされ、脚を挫き1週間ばかり休んだ。家の前の公園では、少年達が滑り台の上から威勢良く何か演説の真似をやっている。遠足も来た。皆ワイワイガヤガヤと賑やかだ。戦前の公学堂の時は1人として声を出さず、大人しい子達と思っていた。そんなことは無い、子供は騒がしいのが自然だった。

公園の裏山の木を中国人達が片っ端から切って持ち帰り、終いに裸山にしてしまった。どうも勝手に持って行くらしい。その年の夏雨の後見たことも無い赤茶色の濁流が家の前の道路をドウドウと流れた。保水力が失われたせいとは後で考え付いた。何者かに家の鉄条網の垣根を倒されたが、隣組の人達が集まって元通りにしてくれた。

ロシヤ語の日常会話位知ってないととやりだしたら、直ぐ今度は中国語を覚えよとなった。戦前は中国人が日本語を喋るので我々は何の苦労も無かったのだが。中共の八路軍(パーロー)が便衣姿で来たりするのを、公園でお茶等の接待をした。剣に付けられた赤い布は女の血で染めてあるのだ。等と誰かが言ってたが、八路軍は世界一厳格な軍紀の軍隊だそうだ。

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2007年5月20日 (日)

(大連の思い出23)ソ連軍進駐

Tank_4 間もなくアメリカの艦載機グラマンが、100機ばかり来て上空を乱舞、日本が敗けた事を実感した。1945.08.09ソ連が日ソ中立条約を破棄して満州に侵攻した。満州里では父も軍人軍属でもないのに、バイカル湖方面に抑留された。

(満鉄軍属とは陸海軍の指揮監督により軍務に従事した南満州鉄道(株)等の国策会社の職員等とあるが、父は病院の事務と聞いていたが軍務に従事していたかどうかは定かではない。)

ソ連軍は08.22。つまり"敗戦の詔勅"から1週間後には大連に到達した。戦車の轟音が市中に響き渡り、我が家の前も走って行く。初めて見る戦車とはこんなに速いものか。そして曲がる時は片側のキャタピラを止めて、反対側を動かし直角に曲がる事を知る。アスファルト舗装の大連の道路は忽ち滅茶苦茶になった。

ソ連兵の略奪には2回遭った。1回目は昼間で、次々と家を回って来るのが判り、母と姉は床下に隠れ祖母と私だけが居た。祖母に自動小銃を突きつけ何か叫ぶが判らない。女を出せと言っているらしいが、手を振ると引き揚げていった。その後数軒先の家で銃声がした。床下に隠れていたそのすぐ隣に打ち込まれたそうだ。

2回目は夜で、開けろと怒鳴っているらしい。その内片っ端からガラスを叩き割りだし、祖母が慌てて開けると雪崩れ込んで来た。この時は時計等を盗られた。アメリカ、ソ連、中共、国民政府と入り乱れての時期で、特にソ連兵の女性への暴行は中国人にも及び評判が悪く、ヤマノフ少将からコズロフ中将に換えられて"略奪者は死刑に処す"の布告が出てからやっと収まった。

市役所の半地下の窓から捕まった兵隊がこちらを見て不敵に笑っていたのを覚えている。シベリヤ送りの囚人兵が多かったと言う。軍自体もドサクサ紛れに日本の会社などの設備、製品を片っ端から持ち出して本国へ送り、中国の対ソ悪感情の元にもなった。

しかし隊伍を組んで行進するソ連兵の歌声は、かつての日本兵がありったけの大声で怒鳴るのと違い、2重唱の実に素晴らしい合唱だった。日本に帰ってから来日したドンコサック合唱団を聞いたが、一般人である彼等が負けない位上手いものだったと今でも思う。我が家の玄関先で休憩して歌っていた。そこに学校から帰って来た私が恐る恐る入ろうとすると、座っていた兵隊が道を開けてくれた事があった。少年のような丸刈りの囚人兵も混じっていた。

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