大連の思い出

2021年8月21日 (土)

バナナ

Banana 米、ティッシュ、トイレット・ペーパー、酒、ビール、牛乳等嵩張る物、重い物等、COOPから取っている。

梨だが、幸水大玉2ヶを取ったら、不味く辟易した。朝起きて暫くは脚が痛く、2ヶ共酷い時食べたが。

バナナを取るが、フイリッピンや中南米の物。台湾バナナが出たので懐かしく取った。小振りだが甘みが良い感じだ。最近出ない。

台湾バナナと言うと、戦前の中国、大連で暮らしていた時を思い出す。父は奥地に出張で、年2回位帰って来る。

祖父母、母、兄、姉、弟の私計6人。兄は秀才と言われ、常に級のトップ。先生に勧められ、岡山6高→東京帝大となったが学徒入営で敗戦。

その兄が居た頃、頭が禿げて仕舞い、包帯だった。勉強のし過ぎとか、後で治ったが。その兄が2階で猛勉強の時、台湾バナナが入った。当時バナナや卵は貴重品。

兄の分が無かったか、覚えて無いが、禿頭に良くないとかで、こっそりという事で、台湾カブツを食べましょうと。各自1本だから、さっさと食べて仕舞えばいいものを、母がそう言っていたのを覚えている。

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2021年7月 1日 (木)

バム鉄道

Joseph_stalin_2 シベリア鉄道と並行する、第2シベリア鉄道とも言われる、バイカル~アムール鉄道(バム鉄道)。その複線化に新コロで労働者不足の為、ハバロフスク辺りの受刑者を従事させると。

スターリン時代の、第二次世界大戦終了時の、シベリア鉄道を想起させるとの報道だ。

あの時は囚人だけで足りず、満洲(中国東北部)から関東軍等の捕虜が60万人送り込まれ、6万人以上が亡くなっている。

私は大連で敗戦を迎えたが、進駐したソ連軍には囚人や、少年兵が多かった。我家の前で休憩する彼等の歌うのが、ドンコサック合唱団みたいだというのは言い過ぎだろうが、兎に角がなり立てるだけの関東軍とまるで違ったのを感じた。

関東軍倉庫から物資を一切合切持ち去ったと。大戦の犠牲はソ連が一番多く、重労働にも女性が従事したらしい。

父だが当時満鉄社員として、ソ満国境の満洲里(マンチュリー)におり、軍属だったがシベリア送りとなった訳だ。

我々が引き揚げて2年後位だったか、帰って来られたのだが、元々口数の少ない父だったし、収容所の事は一切聞かず仕舞いで終わった。アムゼルカと言い、何でもバイカル湖辺と聞いた気がして探すが見当たらない。狭霧の彼方である。

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2021年6月 8日 (火)

戦犯散骨

Dmacarther 太平洋戦争敗戦後、極東国際軍事裁判で、東条英機首相等、いわゆるA級戦犯7人だが、その遺骨の始末が判り、昨日報道された。

遺族は火葬の際、皆一緒くたに捨てられたと思っていたらしい。私達も不思議とその行方等に関心を払っていなかった。

アメリカから資料が入手され、現場責任者の少佐が、火葬後横浜より軍用機で、太平洋上空に散骨。神格化を恐れたか、詳しい位置は不明と。

遺族は「どこかに廃棄されるより、自然に還されたのはましだ」と語っている。散骨と言うと今でこそ話題だが、それが当時の事なので驚きだ。

私の思い出だが、小学校(当時の国民学校)で敗戦、中学1年で中国東北(当時の満洲)大連より引揚、入営で敗戦を迎え命拾いをした兄が、東大(当時の東京帝大)から印刷局へ入ったので、小田原は鴨宮にある印刷局工場の寮に入った。

母がリュックを背負い、山北の農家に買い出しに行ったりしていた。満鉄社員で満洲里からシベリヤ送りとなった父もやがて帰って来た。

ペラペラの寮とて、押し入れに入ると隣の声が丸聞え。我々の部屋にラジオは未だ無く、隣から聞こえてくるラジオを母と姉と3人で聞くのが楽しみだった。

軍事裁判は良く覚えている。デス、バイ、ハンギングと言うのを知った。7回言った訳だろう。

東條は、ヒットラーと違い、トツトツとした面白味の無い話し方だった。大将やその奥様などが自決する中、彼は失敗する(娘婿は自決)。拳銃が心臓を逸れたらしい。狭霧の彼方の事とはなった。

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2015年9月14日 (月)

スポーツあれこれ

Beach_parasol_3私は大連で生まれたが、小学生のころ、それまで何回か夏家河子、星が浦、老虎灘などの海水浴場に学校から行ったが、最後の老虎灘で初めて1~2m泳げとても嬉しくなった。

ところがその直後、沖合で轟音と共に高く水柱が立ち、大きな商船が湾内に避難して来た。潜水艦に駆逐艦が爆雷を投下したそうで、水泳は直ちに中止、太平洋戦争の開戦直前か直後だったろうか定かでない。

それから帰国後も食うことに一家必死で、余裕が出来たころはすっかり成人、何となしに水泳はやらず今日に至った。折角伊豆の海に来たのに、残念な気持ちもあるがもはや手遅れ。

終戦後中学1年に入学、半月余で引揚となったのだが、その中学でのこと。野球部?で人が足りず、急遽お前入れということでバッターボックスに立ったが、猛烈なスピードの球に竦んで打つどころでなく、直ぐ外されてしまった。

以来野球は今日に至るまで大嫌いになり、王や長嶋、野村監督など人柄は面白く好きだが、野球は一切見ない。

植物好きだったので、42歳から山歩きを始め、約20年、5千キロを歩いた。ホームページ 青山白雲では「気軽に始めた山登りだったが、そのうち山狂気となり、ピークハンター気味となるが、沢屋、岩屋を避け、尾根屋、藪屋を好み、偶に家族と以外単独行を通した」とある。

伊東に来て伊豆の山々を少し登ったが、ナンバー2の万二郎岳は登ったが、最高峰の万三郎岳は未登。82歳ともなると去年からガクンと来て体力的にもう無理かも。せめて西伊豆、南伊豆遊歩道をと思っている。

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2015年5月23日 (土)

敗戦間近の思い出

Airplane22日の東京新聞で、2500万人知らぬ間に義勇隊の記事。敗戦も近いころ、破れかぶれの状態になった政府、軍が賭けた総動員の記事で、モンペの婦人たちが砂浜で竹槍訓練をする様子の写真も載っている。誰もこんなものでと思いつつ、やるしかなかった、哀れなわが日本のその頃の状況だった。

広島では4千人余の人々が他所より入り、延焼を防ぐための建物疎開と称しぶっ壊す作業中、あの弾が落下亡くなったと知る。今になって聞くとなんと愚かな事となるが、当時は皆真剣に毎日、ひたすら戦争のために出来ることをと必死だったと思う。

当時私は大連で小学校(戦時中は国民学校)5年生位だったと思うが、授業そっちのけでお手玉で手榴弾の投擲、モールスや手旗信号の訓練などを連日やっていた。

飛行機は教室に張られた写真を見乍ら、名前と音を拡声器が流す。なんとスマートな敵機よ、それに比べダサイ友軍機と正直心中思った。

周水子飛行場に行き、弾運びをしたが、皆で話しながら作業中、突然現れた将校に「貴様等たるんどる!」の大音声に、縮上がったのが強烈に記憶されている。

飛行機の音は色々聞かされた訳だが、実際やって来たのはB29。ウォーン、ウォーンと不気味で、翌日の新聞にウン、ウンとあり、一寸違うなと思った。

そして敗戦、茫然自失の状態となったが、やがてアメリカの艦載機が見た事も無い大量に低空飛行。一週間という猛烈な速度で到達した、ソ連軍の戦車の轟音が市内に響き渡り、あゝ負けてしまったのだと実感した。

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2015年3月16日 (月)

阿川弘之自選紀行集

Book阿川弘之自選紀行集

14日、北陸新幹線が金沢まで開通、引換えのように札幌迄の寝台特急北斗星が廃止され、最後を見んものと3千人もの鉄道ファンが上野駅に詰掛けたとか。

私は鉄道ファンでは無いし、山以外特に旅行好きでも無かった。暇の出来た今は体力的に無理となり残念だ。代わりに峠、街道など紀行本を集め、順次読もうかと思っている。

内田百閒の阿呆列車物は国内だが、阿川弘之の南蛮阿呆列車から読みだしたのだが、中々の鉄道ファンで面白く読める。宮脇俊三のも大分集めた。

この自選紀行集は船と鉄道で「北斗一号試乗記」は正しく今回廃止されたものであり、阿川さんの感慨如何許りであろうか。新幹線に地元も旅行者も熱い眼差しだが、寝台車を次々廃止するスピ-ド優先の風潮は阿川さん好みではないだろう。

大連生まれの私が興味深かったのは「なつかしの大連航路」だ。遠藤周作と行っている。遠藤さんと阿川さんの姉の家が私の家の近くだったとは・・・。未だ文革が終わった辺りらしく、高層ビル乱立の前だが、みすぼらしい街の有様に2人とも幻滅したようだ。(坂の向こう辺りがその隣町

しかし今行ったらもっとガッカリだろう。同じ町内だったらしい清岡卓行は「アカシヤの大連」でそれを予想したかのようなことを書いている。私の家もマンションになったようだ。(参照) ★★★★★

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2014年2月20日 (木)

懐かしの我家

西澤泰彦著「大連都市物語

大連に生まれた私だが後述するように、今の大連には余り行く気がしない。昔の幼い頃の良き時代の思い出だけ大切に取っておきたい。そんな思いでこの本を開く。建築史の学者で、かつての大連の建築物に焦点を当てたこの本。

大きな建物は子供の頃とて私も良く知らないのまで、くまなく収録されているようだが、住宅建築も少しある中、全く期待していなかった、我家の写った白黒の小さい一枚を見つけ驚喜した。

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左は弥生ヶ池公園で、路を隔てて右下の2戸1棟の右半分が我家である。1933年ここで私は生まれた。写真は1920年代とある。母の話では、引越しを繰り返しやっと落ち着いたのがここといっていた。南に山を背負った大きな公園があり、路も広いが当時とて殆ど車も通らず、静かで明るいのが気に入ったのだろう。

中央の橋は公園の池からの川に架かったもので、当時手前の山の彼方の集落から中国人(満人)の勤め人が沢山市内へ通っていたが、何人かが橋の左端から出入りするのを目撃した。ある日下りてみて人糞が沢山あり辟易するが、帰国してそれは便所もろくにない彼等がやったことと推測した次第だ。

橋の右手、電柱のある所は戦時中、我家の防空壕だった。一回きりのB29の空襲の時入った。その後豪雨で崩れ、隣組の人達が協力してくれ、家の前の公園に新しいのが完成して間もなく敗戦となった。

我家一帯は市営住宅、川向こうといって先は高級住宅地だった。「アカシヤの大連」の清岡卓行も直ぐに住んでいたようだ。張作霖事件の河本大作の豪邸が出来、戦後はソビエトに接収され、女性の将校が歩いていたのを見たことがある。

公園沿いの坂道は途中から急になり人力車でジグザグ登ったり、マーチョという馬車で下ったこと等思い出す。満鉄の出張が殆どだった父の駅までの同乗だったのではないだろうか。

上り詰めた右の建物は、天理教の道場だと思う。その先に同級生の女子の住む奥深い屋敷は正金銀行支店長だとかで、皆で呼び鈴を押して逃げたりした。石蹴り、縄跳び、トンボ捕りと道の上で遊び、冬は池でスケートと思い出が一杯詰まっているが、今はマンション林立、川も埋め立てられたと。路上駐車も一杯で、昔日の面影はないようだ。

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2011年10月22日 (土)

出会い

Shinkansen_2こんなアクセスの少ないブログだが、それでも今迄にいろんな出会いがあった。伊東に来る自衛艦の写真を結構載せたが、ある艦の乗組員の家族の方から、コメントをいただき、コピーさせてとのこと。喜んで返事差し上げた。

最近の奇遇は、何といっても私の生まれた中国、大連市での住まいでのことだろう。検索で来られたであろうブログのカテゴリー「大連の思い出」欄を見て同じ街の方がコメントされた。なんと3軒先のお宅で、私より幾つか下だったその方に朧な、そしてその方の祖父には、はっきりした顔まで浮かぶ記憶があったのだ。

お互いに驚き、そして昨日愛知よりわざわざ伊東に来られ、お会いした。ちょっとした感動再会であろうか。小さい頃の事とて、頼りない定かでない記憶を手繰り寄せての話し合いだったが嬉しかった。

引き揚げまでの仮住まいは、市の別の所に移動させられたが、同じ辺りであったらしい。考えてみれば町内だから当然か。大連にも行かれたそうで、写真など拝見、短い時間ながら楽しいものとなった。

働いていた頃、小学校の同窓会から、幾度も誘いがあったが行かなかった。リタイアした今気持ちに余裕が出来て、行く気になり探したが、皆高齢で解散したか連絡がつかない。そんな時だったので嬉しい出来事であった。

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2007年6月 4日 (月)

(大連の思い出27終)舞鶴

Misoshiru 舞鶴港に着いた。景色は寒々として、満洲の寒さと又違ったピヤピヤと底冷えのする気候だ。収容所に入ると先ずアメリカ兵に頭からDDTを振掛けられた。大広間に1泊。寝具は毛布だけだが1人10枚位迄いいという。

お汁粉をどうぞの放送でゾロゾロと食堂へ入ると、そこにはお椀の底に冷たい汁が1~2cmあるだけだった。皆笑いながらアッという間に啜り終り、又広間にゾロゾロ帰ってゆく。私の見た範囲では文句を言う人は一人も無かった。

ここから母方の親戚の多い京都は直ぐだ。京都でお互いに世話になった誠一さんとも別れ(たしか京都の呉服屋の番頭さんだったと思う。ぴったりの物腰風采の人だった。)祖父母達と我々は、それぞれ別の親戚に厄介になる。

1週間位経った頃、祖父が亡くなったとの知らせが届いた。帰って来る時一寸した荷物も持つのを嫌がってたのは、身体が弱ってたせいだったのかと、これ位持って下さいよと文句を言っていたのが悪かったと皆思った。

母は京都府庁の嘱託、姉は進駐軍の食堂のウェイトレス、私は鉄工所の雑役と3人働いてなんとか食える毎日だった。1年後印刷局に勤めていた兄に呼ばれて小田原に、間もなく父がシベリヤから帰って来た。

その後藤原ていさんの「流れる星は生きている」 で、38°線を超える時の想像を絶する苦難の記録を読み、涙が止まらなかった。それに比べ一人も欠けず再会できた私達は運命に感謝しなければならない。

あの懐かしい大連の家だが グーグルアースで見ると、あの一帯の市営住宅は数階建てのアパートに建て替えられたらしい。"川向こう"は日本人街として保存されているがこれも立て替えるとか。

「かつての日本の植民地の中でおそらく最も美しい都会であったにちがいない大連を、もう一度見たいかと尋ねられたら、彼は長い間ためらったあとで、首を静かに横に振るだろう。見たくないのではない。見ることが不安なのである。もしもう一度、あの懐かしい通りの中に立ったら、おろおろして歩くことさえできなくなるのではないかと、密かに自分を怖れるのだ」。  清岡卓行「アカシヤの大連」より。

大連出身者が里帰り?して、空き地になったかつての自宅の前で写真を撮っているのを見たが、私には出来ない。記憶の奥底にそっと仕舞っておきたい。

蒙古風吹く度想う大連の家で一日掃きいし母を

銃突きて女を出せとソ連兵二階に逃ぐる祖母に迫りぬ

腕時計ないかと手真似のソ連兵腕にはすでに数個着けおり

中国の子に訳も無く脚蹴られ挫きて逃げし敗戦悲し

引揚の港に着きて日の丸の船見し感動戦時に勝る            

終 Boy11_1                          

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2007年5月30日 (水)

(大連の思い出26)引揚

Sofa_1 日本人は市の一隅に片寄せられ、中国人に家を明け渡すことになった。それで家財道具を売ることになり、中国人の夫婦が買い付けに来た。二束三文で売り渡した母は相当なショックだったらしく、その後長いこと口惜しがっていた。

斯くして身の回り最低限の物だけとなり、移り住んだ家は1軒の8畳、6畳、4.5畳3間に3家族、12人が住むことになった。耳の聞こえがとても遠くなった祖父だが、ふつつか者ですがよろしくと他の家族に挨拶していた。

幾らも居ないうちにいよいよ引揚は開始された。夕暮れの中を日本人を満載したトラックは相当のスピードで突っ走る。これで大連をこの目で見るのは最後な訳だが、誰も景色に目をくれようともしなかった。港の倉庫に着くと、そこは既に一杯の人で溢れ中に入れない。夜になりシンシンと冷え込んできて、やっと何とか割り込むことが出来た。

ソ連兵に順々に呼ばれ別室へ。その直前威張った感じの日本人通訳が現れ、軍票を持っているものはここで出せ。もし隠したまま後で判ったら全員帰さないという。慌ててリュックから物を床にブチ撒け軍票を取り出すが、混ざっていた写真等を収納する間もなく、次の部屋へと急き立てられ、写真は全部失う事となる。

桟橋に横付けされた引揚船に、掲げられた日の丸の旗を見た時の気持ちは、何とも言いようがない。戦時中あれだけ国家総動員で動いて来たが、この時ほど日の丸に感動したのは無かった気がする。

船が岸壁を離れる時、ソ連兵に混じって肩を怒らす通訳に皆馬鹿野郎!と罵声を浴びせた。約1週間の船旅は船倉での蚕棚のようなギュウ詰め状態で、私はトイレ以外1歩も外に出なかった。そのトイレだが船から張り出して遥か下が海で縮み上がり、私は上陸まで我慢してしまった。

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