(大連の思い出27終)舞鶴
舞鶴港に着いた。景色は寒々として、満洲の寒さと又違ったピヤピヤと底冷えのする気候だ。収容所に入ると先ずアメリカ兵に頭からDDTを振掛けられた。大広間に1泊。寝具は毛布だけだが1人10枚位迄いいという。
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舞鶴港に着いた。景色は寒々として、満洲の寒さと又違ったピヤピヤと底冷えのする気候だ。収容所に入ると先ずアメリカ兵に頭からDDTを振掛けられた。大広間に1泊。寝具は毛布だけだが1人10枚位迄いいという。
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日本人は市の一隅に片寄せられ、中国人に家を明け渡すことになった。それで家財道具を売ることになり、中国人の夫婦が買い付けに来た。二束三文で売り渡した母は相当なショックだったらしく、その後長いこと口惜しがっていた。
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大連湾の対岸の柳樹屯に陸軍病院があり、満州に応召して病気になり、入院していた祖母の甥に当たる誠一さんが家を頼って来た。我が家は年寄り女子供なので、優男ではあるがとても力強く有難かった。昔から祖母が可愛がっていた人らしい。
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生産活動が殆ど止まったので皆売り食いになり、我が家も母と姉が服など日用品をどこかの市場に売りに行く毎日となる。その表情は朗らかで、こんな時女は逞しいなと後に思った。中国人の行商がパッタリと来なくなり、代わって日本人が色んな物を売りに来た。もろみはいらんかねーと遠くから良く透る声の人がいた。
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間もなくアメリカの艦載機グラマンが、100機ばかり来て上空を乱舞、日本が敗けた事を実感した。1945.08.09ソ連が日ソ中立条約を破棄して満州に侵攻した。満州里では父も軍人軍属でもないのに、バイカル湖方面に抑留された。
(満鉄軍属とは陸海軍の指揮監督により軍務に従事した南満州鉄道(株)等の国策会社の職員等とあるが、父は病院の事務と聞いていたが軍務に従事していたかどうかは定かではない。)
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初めてB29が飛んできた。ウワーン、ウワーンという独特の爆音を響かせて。翌日の新聞にはウン、ウンと出て一寸違うなと思った。何回か来た内1回市中心部に爆弾を落としたが、ヒューッと物凄い音だった。木造家屋が無いので焼夷弾は落とさなかった。
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海水浴場は3ヶ所ばかり行った内"老虎灘"が最後となった。湾の向こうに虎が寝そべったような岬がある。未だ泳げなかったのが、ここで初めてバタ足で2~3m泳げるようになり嬉しかった。がその時老虎の向こうの海より、巨大な水柱が上がり皆大騒ぎになる。敵潜水艦の攻撃があり駆逐艦が爆雷を投下したのだった。
ということで商船が湾内に避難して来て、乗客が向かいの岸に上陸しているのや、沖合いを走る駆逐艦等を皆呆然と見ていた。水泳はそれきり中止になり、やっと泳げた私だがそれ以来水泳どころで無い生活で大人になってしまい、未だに泳げない。
家の東にある転山々頂には高射砲陣地が出来ていたが、そこの兵隊さんを各戸交代で招き慰問の接待をする事となった。我が家にも2~3人連れ立って何回か来たが、酒食のもてなしと家庭の雰囲気は兵隊さん達には嬉しかったことだろう。
1人羽目を外して飲みすぎ、仲間にもう止めろと言われても「これからや」と大声を出し、家では「これからや」というあだ名で呼んだ。その兵隊さんがへべれけで皆に肩車されて帰っていったが、後日聞いたところでは、上官の前に立ったとたん直立不動になり「ただ今帰りました!」としゃきっとしていたそうだ。
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毎月8日は開戦を記念して"大詔奉戴日"になり、講堂に集合する。天皇皇后両陛下の御真影に最敬礼の後、校長が紫の袱紗を広げ黒塗りの箱より詔書を取り出し朗読する。
先ず"教育勅語"。 朕惟フニ我カ皇祖皇宗・・・ で始まる朗読の間ずっと頭を下げている。意味は大体判るが1語1句は難解でそれについて教わった覚えも無い。
いい加減首が痛くなる頃、終わってホッとするが又"青少年に賜りたる勅語"が始まり頭を下げる。軍人勅諭の青少年版だ。今度は校長も気分を変えようとするかのように、少し明るく高い調子で読み出すので我慢して聞いている。
"軍人勅諭"は物凄く長くこれも書いたのが配られたが、さすがにこれは 1っ軍人は忠節を尽くすを・・・ の5箇条の見出し(?)だけ覚えるだけでよかった。その他神武天皇から始まる歴代天皇名の暗記をさせられた。
この講堂でもう一つの思い出がある。姉が通学していた神明女学校の生徒が来て何かやっていた時の事。私は全然気が付かなかったのだが、誰かが女生徒をからかったらしい。その先生が血相を変えて職員室に飛んでいったのを覚えている。
やがて私達の担任が現れ、皆を並ばせると片端から顔面にビンタを食らわせた。あの痛さは今もしっかり記憶されている。"皇国の訓導"といわれた恐ろしい先生だったが、後にも先にも殴られたのはこの時だけだ。
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父は奉天から更に奥の満州里(マンチュリー)の満鉄病院の事務として出張になった。満州の西の果て、ソ満国境の町だ。でもそこは自然豊かな所らしく、畑で作った沢山のジャガイモや川で獲れたという大きな魚の塩漬け等を送って来た。
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学校では勉強そっちのけで毎日戦争の話ばかりになって来た。ある時先生がお前達将来何になりたいか順番に言ってみよということになった。散々戦争の話をした後だったと思う。
僕は陸軍元帥になります。海軍大将になります。飛行兵になります。戦車兵になります。・・・ とにかく皆軍人ばかりだった。最後近くなって一寸知恵遅れの子がいていつも何かとからかわれ馬鹿にされてたのだが、その子の番になった。
「僕は馬鹿なので何も大したこと出来ないので、田舎で百姓をやります」と言ったのだ。それ迄興奮気味だった教室がシュンとなり、先生も少し覚めた顔になった。何と言ったか覚えてないが、「そうだな、お百姓も必要だ」と言ったような気がする。
壁に敵機の写真が貼られ、スピーカーからはグラマン、ロッキード等アメリカの爆撃機、戦闘機の名前が放送され、爆音が流される。特徴を覚えよという訳だ。日本の爆撃機(例えば呑龍)もあった。でも子供心に野暮ったいなーと思っていた。それに引き替えアメリカの飛行機の格好よいこと。無論口には出せない。
校庭で手榴弾を投げる訓練もよく行われた。現物は無いのでおはじきを使う。1で手に持ち、2で安全弁を口で引き抜き、3でなるべく遠くへ投げるのを繰り返した。一寸でももたつくと自分が死ぬのだぞと言われた。
あと手旗信号の練習もやった。勤労奉仕では市のはずれにある"周水子飛行場"迄行き高射砲の弾運びをやった。しゃべりながら運んでたら、軍人教官に「お前達たるんどるぞ」とえらい勢いで怒鳴られ縮み上がった。
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日本未曾有の総力戦に突入したので、生活の全てが戦争中心に動き出した。勉強は修身は欠かさず教わったが、他の科目は殆ど棚上げ、何しろ戦争に話が絡みだすと、時間が来るまで戦争一色で終わってしまうような先生だった。後戸外での教練等・・・。それまでの1~2年で読み書きや算数の基礎を教わっていたから良いようなものだが。
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「大本営発表、帝国陸海軍は今8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れリ」 1941(S16)12、08 この報道がラジオから流れ、満州事変、支那事変と続いていた日本は太平洋戦争へと突入した。
それからは毎日のようにラジオから、敵戦艦何隻撃沈等の戦果が発表され、興奮した私は勤めから帰宅した祖父に、お帰りなさいも忘れ、大声で「撃沈!」と叫び吃驚させたのだった。
以後隣組が組織され、男性は国民服に戦闘帽、ゲートル、女性はモンペ姿に、胸には住所氏名の名札を付け、急速に戦時一色にのめり込んで行く。子供の私はそれまで日本が中国で戦争してたのは知らなかった。
学校は南山麓尋常小学校だが、国民学校に改称され、軍国主義の少国民への徹底的な教育のため"皇国の訓導"が、任に付いた。男女別学になり1~2年の優しかった女の先生に代わり、受け持ちはいつも怖い顔で辺りを睨んでいるような男の先生になった。
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関特演は、日本軍の関東軍特殊(又は特別)演習のことで、1941(S16)年7月70万の兵力が満州に派遣された。(ソ連ではモスクワにドイツ軍が迫っている時で、シベリヤよりの救援部隊の移送が出来なくなり、対日宣戦布告が条約期限切れ前だったのは、この時点で日ソ中立条約は無効と主張しているらしい。)
家の前の公園では突然日本軍の大演習が行はれ、機銃や鉄砲の音で耳がおかしくなってしまった。あれはその時のものだったのかはっきりしないが、たしか夕方から夜に掛けて行われた気がする。
秩父宮が大連に来られたのもこの頃ではなかったか。学校では全生徒を動員して郊外の道端に並ばせた。何時間も待った末通過する車列に深々と礼をする私達。顔を拝する等とんでもない。周水子飛行場から来られたものだったか。
学校では講堂だったか映画館だったか忘れたが"奴隷船"という映画を見た覚えがある。アメリカが、アフリカより奴隷を大量に船に乗せ運ぶのだが、皆鎖で数珠繋ぎにされて、ぎっしり横に寝かせられた過酷な光景にショックを受けた。日本に立ち寄りその時何人か逃げ出し追いかけられるのを、日本の警察が救うと言うような所を朧に覚えている。
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家の南側は道を隔てて"弥生ヶ池公園"なので、日当たりは最高だ。道は2車線で広いが車は殆ど通らないので、センターラインなど無い。歩道も無論ある。市営住宅なので年1回係りが悪い所を調べに来て、その後10人位の職人が補修を行う。その日はおちおち家の中に居られない。畳替えだけは別の日に日本人の職人だったと思う。
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行商人は皆満人だった。"ボローエ"の呼び声は天秤棒で籠を前後に提げたくず屋で、ボロなど廃品回収だ。ボンという音を出して高粱(こうりゃん)を炒るのは"爆弾あられ"といった。その他いろんな物売りが売り声様々に家の前を通つた筈だが忘れてしまった。
2、3人の子供達(しょうはい)が"メーシシンジョーエ"(ご飯を下さい)と言いながら両手を差し出す。ほら"飯進上"が来たと言ったものだ。満人の子供の乞食だ。その様は汚れに汚れた姿で、敗戦後の上野駅の浮浪児等ずっとましだった気がする。
それを同じ手つきでからかう我々。そして脅かすと悲しげな目つきをして逃げて行ったのが強く記憶に残っている。敗戦後、その仕返しで、登校中足蹴にされ足を挫き1週間休んだ。奥地ではもっとひどい目にあったらしい。
小盗児市場(しょうとるいちば)というのは満人街にあり、盗まれた物が翌日にはそこの店頭に並んでいるといわれた。そこだか良く判らないが母と一緒に買い物に出掛けた事がある。必ず掛け値してあるから言い値で買ってはいけないとかで、値段を聞いた母がそれならいいと帰る素振りをすると、奥さん負けたと呼び止めるのだった。
(参考)幻影城書庫より 子盗児市場の殺人
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両親が1ヶ月位内地に旅行に出掛けた事がある。たしか新婚旅行をしなかったので、というのだったと思う。
その間家政婦を雇ったのだが、これがろくに家事をしないで、家にある雑誌や本ばかり読んでいる。結局祖母が大体やるはめとなり、皆でブウブウ言ったが本人はいたって平気だった。
お土産にゲーム等貰ったが、一番覚えているのは京都で多分東映太秦撮影所だと思うが、三大女優の一人と言われた山田五十鈴を真ん中に両親が写っている写真だった。
その大事な写真も引き揚げの時、軍票を隠しているのが見つかると全員返さないと、ソ連軍の検問の直前で言い渡され、床に書類をぶちまけて探し出すと、写真等を戻す暇もなく、次の部屋に急き立てられ失ってしまった。
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祖父が会社から帰って来ると、和服に着替えて食卓の前に座る。夕刊を読み終わり未だ夕食に間があるので、いつも退屈紛れに始めるのが食卓を両手の人差し指で叩き出すことだった。左がチョン、右がコで、
チョンチョン チョコチョン チョン チョコチョン チョコチョン チョコチョン チョン チョコチョン
という具合にだ。いつも祖母にうるさいわねと文句を言われると、止めるのだがしばらくすると又始まる。日本に帰って"手締め"というのを知ったがあれは
パパパン パパパン パパパン パン で似てるが一寸違うようだ。
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春になるとゴビの砂漠から、偏西風に乗って 黄砂がやって来る。蒙古風と言って昼間でも薄暗くなり、どんなにぴったりと扉や窓を閉めても、隙間から砂が入って来る。それ程の細かいものだ。(直径10μm以下)綺麗好きな母は「いい加減にしたら」と皆が言うのだが、一日中雑巾掛けでくたくたになっていた。今はもっとひどくなっているようだ。
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弥生ヶ池から川沿いに緩く下ると、私の学んだ南山麓小学校に到る。大きな運動場の外、道を挟んで"上の運動場"という中くらいのもあった。傍に幼稚園があったが、あの頃は今と違いあまり入らなかった。
校舎は日の字形で真ん中が講堂、左右がテニスコートと中庭。冬はテニスコートはスケートリンクになる。1、2年は養護学級とて、男女共学、肝油を貰うことくらいの違いだったと思う。先生は女性で優しく、私達の市営住宅に住み、伺ってピアノを聞かせて頂いたりした。
3年生からは太平洋戦争開戦となり一転して男女別になり、尋常小学校→国民学校と改め"皇国の訓導"である男性の怖い先生が担任になった。(国民学校は皇国史観と軍国主義を徹底的に叩き込む目的で作られ、訓導は当時の小学校教諭のこと)
校内の思い出で一番記憶にあるのは、2~3名で床下にもぐり適当にここはどこだとそっと床板を持ち上げたら保健室で、我々が覗いているとは露知らず先生が生徒を診ているところだった。校舎は現在建て替えられたらしい。グーグルアースで見ると上の運動場は無くなって一杯建物が建っている。
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私の家は市営住宅で建設時はペチカが付いていたが、あまり暖かくないとかでどこの家も石炭ストーブを使っていた。火力が強く暖かいが、紙→薪→粉炭→豆炭→石炭と点けるのが厄介で、絶えず石炭の補給をしたり、今の暖房に比べると世話は大変で、裏に大きな石炭倉庫があり、廊下にも小出し用の置き場があった。
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半官半民の国策会社、満鉄(南満洲鉄道K.K.)は、1944(S19)年には社員4.5万人、従業員総数40万人だったと言われる。父はその満鉄社員で私の幼い頃は既に奉天に出張、年に2回、1週間位帰って来る生活だった。
1回大連駅に迎えに行き、馬車に乗って帰って来た事があった。馬車に乗った記憶はこれだけだ。父の顔を忘れてしまい、どこのおじさんと言う感じだったらしい。その内すっかり馴れた頃は戻ってしまうという繰り返しだった。
寝ていて鬚を顔におっつけられて痛かったのが、強く記憶に残っている。父が足の上に私を乗せ手を持って「一人歩けば二人歩く」と節を付けて唱えながら歩くのはよくやった。"オンデババチョ"と言う遊びだったが、ネットで調べても判らない。
祖父母、母、兄、姉、私の見守る中での夕食。祖母が父の事をとてもおいしそうに食べるとよく褒めていたが、我が家はサザエさんと同じ母方の祖父母なので、マスオさんたる父は、たまに帰ると少し気取って食べていた気がする。私はと言えば帰って来た時と様変わり、戻る時は淋しがってぐずったらしい。
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4月頃家の西側の川沿いの道路一杯に、綿が風に吹かれてふわふわ流れ飛ぶ様はちょっと壮観だった。川縁にある樹からの物であることは判っていたが、樹の記憶がまるで無い。
ヤナギ科ではあるが楊樹(ポプラ)と言い、春の花が終わると直ぐ綿毛付きの種子を飛ばし、それを柳絮(リュウジョ)と言い春の到来の象徴だと言うこと等後で知った。
しかし"グーグルアース"で、付近を拡大してみると、川は埋め立てられ家が建っているようだ。川は暗渠にしたのかもしれない。樹は残っているのだろうか。リュウジョアレルギーとかがあるらしいので無いかもしれない。
http://www2.odn.ne.jp/~had26900/wild_plant/wp5_f/niseakashia.htm よりニセアカシア↑
大連と言えばアカシアの街路樹が有名だが、私の記憶では家の東側にある転山の麓に自生したアカシアの林位だ。5~6月房状で白色の花が咲くと仄かな蜜の匂いが漂ってくる。テンプラにして貰い美味かった。
マメ科クララ属の槐(エンジュ)をアカシアと言い、大連ではこれは少なく、殆どはマメ科ハリエンジュ属の針槐(ハリエンジュ)だと言う。アカシアはネムノキ科アカシア属を指し、ハリエンジュはニセアカシアとも言う。"アカシアの大連"は正しくは"ハリエンジュの大連"と言う訳だ。ああややこしい。
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祖父の書棚から、岡本一平の風刺漫画集を出して2~3名の友達と見ていた。当時"総理の名は知らなくても一平を知らぬものは無い"と言われていたそうだが、子供だから漫画に惹かれて見ていただけだったろう。
その中に確か記憶では、各国の首相の顔だけが輪になって繋がり、下に蛸の足が付いている漫画があった。見終わって皆で公園に遊びに出掛けた。すると遠くの丘で顔が胴の辺りにあってくねくねと動いている物があった。
誰かが"出たっ!"と叫ぶと我先に一目散と逃げ出し、入り口まで戻りやっと安心して子供の事とてそれはそれで終わりとなった。その朧な記憶を今考えて見た。公園には余裕のある満人達が、鳥籠を持って来て楽しんだり、太極拳をやったりしているのを良く見掛けた。
太極拳は地面近く迄身体をゆっくり曲げる動作があり、漫画を見た後、蛸人間となってビックリしたのではないかと。 岡本一平漫画漫文集が岩波文庫であり取り寄せたがそれらしいのは無かった。
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大連の当時の人口は、日本人20万人、満人80万人とされ、市内の住宅の大部分は日本人が占め、4倍の満人街は少い所にひしめき合っていた。
一度用事で母とタクシーで、満人街を通つた事があった。道一杯に大人や子供、立っているのしゃがんでいるのと人であふれかえり、今で言うなら"歩行者天国"さながらだ。運転手は警笛を鳴らし続けていた。
今思うと家が狭いので昼間は外に出ていたのだろう。閑散とした邸宅区域や、午後学校から帰った子供達が道路一杯で遊ぶ、私達の所とは雰囲気がまるで違っていた。一言で言うならそれは貧民窟だ。
毎朝、転山の部落から老虎灘街道を経て、満人が続々と下りてくる。日本の会社等に勤めている人達だったのだろう。その人々の幾人かが公園から流れ出す(雨の時以外は干上がっている)川に架かった橋の袂より下へと入って行き、間もなく出てくるとそしらぬ顔で歩いてゆくのを、窓から見ていて不思議だった。
それが推測で判ったのは引き揚げてから随分経ってからだ。部落にはろくにトイレが無かったらしい。遊んでいてもうっかり橋の下には踏み込めないことを経験していたからだ。日本に帰って当たり前だが橋の下の安全を実感した。
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我が家の南は弥生ヶ池公園だが、その奥には南山が聳え稜線は東へと向かい、転山というも少し高い山へと連なっている。数軒置いた先の伊佐さんという家が転山の先で農園をやっており、1軒置いた先の家の同級生の女の子と出掛けた。
東へと階段を登って行くと、市内から来た老虎灘街道に辿り着く。市内は完全舗装だがここからは埃の道だ。これより山道に入る。尾根道を登ると鳶?が飛ぶ丈の寂しい景色になる。
岩陰より見下ろすと先程の街道が南下する手前に、満人部落が望見された。土で出来た家とは言えない粗末なもので、今しもそこから葬式と思われる行列が出てくる所だった。それを見て2人はどちらからとも無く「行こう!」と走り出したのだった。
その先どう辿ったか定かでないが、農場で伊佐さんに迎えられプラム(当時もプラムといったかどうか)を袋にいっぱい入れて貰い帰ったら、下のほうがグショグショに潰れていたの丈覚えている。
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私の住んでいた所は"南山麓"と言い、道路を隔てて南には"弥生ヶ池"を擁した公園があり、その先には南山という山が聳えている。池から流れ出す川の向こう側は高級住宅街で、こちら側の我々市営住宅では"川向こう"といって付き合いもあまり無い。正金銀行支店長の家などお城のようで、皆で呼び鈴を押して逃げたりしたのを思い出す。
川に沿って少し下った所に、1928年張作霖爆殺事件を起こした関東軍陸軍大佐、河本大作の邸宅がある。ここ丈新築されたのを覚えているので、満鉄理事から会社経営の頃の事だろう。事件は引き揚げてからずっと後で知ったのだが、名前は子供の頃既に聞いていたから親達が噂していたのだろう。群を抜く豪邸だった。
又2006年亡くなった詩人、小説家、清岡卓行の家は同じ川沿いの我が家より直ぐにあったらしい事は アカシヤの大連 を読んで知った。戦後は河本邸等多くの家屋がソ連軍に接収された。
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私は中国の大連で生まれた。(1933年、旧満州国関東州)引き揚げに至るまでの、5才~14才位の朧げな切れ切れの思い出を、大体の順序で綴ってみよう。
私の5才頃の話。祖父が勤めに出る時、祖母が作った弁当を持って出るのだが、ある日祖母が作ったのは、ご飯とその上に少し小さいお菜の入った2階建て弁当だった。
ハンカチで包んで「汁がこぼれますから傾けないよう持ってくださいよ」と手渡した。謹厳な祖父はハンカチの結び目を持って肘を曲げ、前に突き出すようにして歩いてゆく。その様が何ともおかしい。
それを見付けたのが近所のがき連中の1人で、同じような格好をして声を出さずに笑いながらこっそり付いて行く。たちまち後ろに同様の3人程の列となったか。それを見ている私も笑ってしまった。
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