大連の思い出
2025年7月 5日 (土)
2025年5月 6日 (火)
2025年5月 3日 (土)
ユキヤナギ
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雪柳。医者からスーパーへ行く途中に在り、見事だったが、カメラを忘れ、一寸盛過ぎ。
今日は憲法記念日とて、東京新聞は20年に亡くなった”なかにし礼”への17年インタビューを再録。
私も此の記事見た記憶があるが、満洲奥地での敗戦は、私等大連に較べ大変だったと思う。
敗戦後、色々有ったが、忘れられないのは、深夜起されて近所の衆80人位だったかで逃げた。
中国人(満州族)の暴動がとかで。軈て八路軍が来たので大丈夫との事で戻ったが、此の人数で深夜一言も口利かず、ひたひたと逃げたのは忘れられない。
満洲人と言うのは大人しい民族で、少なくとも大きな惨事が無かったのは、日本の植民政策が良かったからだと思うが、軍人の威張り様は仕方なかったかと。
2025年3月29日 (土)
2025年2月27日 (木)
2024年12月20日 (金)
房総
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此の所冷える朝、房総が遥かに。初島の横辺りが家内の眠る”森の墓苑”。家内を見送て6年に成る。2F窓から手を合わせた。
東京は丸の内で、主に引揚者の上陸港と成った舞鶴の展覧会を遣って居るらしい。
私は、祖父母、母、姉、敗戦時、大連の陸軍病院に居て、頼って来た親戚の男性の6名。
桟橋を渡ると御苦労様と出迎えて呉れた婦人会の面々。其の後米兵が頭からDDTを。
広間で休んでいると、食堂に御汁粉がとの事で喜んでぞろぞろ。お椀の底に僅かに冷たい御汁粉が。
祖父は何にも持ちたがらず、皆に文句を言われて居たが、1週間後に亡くなった。
父は満鉄でソ満国境の満洲里で捕まり、シベリヤへ。2年後に帰る。
兄は学徒出陣迄行ったが、其処で敗戦。東京や広島などに較べ、我家は幸運と言えようか。
2024年9月28日 (土)
クズ
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葛。野草にしては中々凝った作りの花だが、繁茂する自身の蔓、葉に隠れて居るのは気の毒。
アメリカに蔓延して手を焼いている相だが、其の後如何なったか。
事実上一国の総理選出と成る、自民総裁選。昨日、NHKは完全中継。
部下に支えられヨロヨロ登場の二階、投票は流石一人なので、交通渋滞が生じて居た。定年制は如何なった?
人気の小泉は、頼りない感じがする所為か、パッとしない。背の高いイケメンの小林が良いと思うがこれも同様。河野も最近の独善的態度が値を下げたか。上川外務は静岡地元で、応援空しく敗退。
高市、石破の決戦と成る。高市、右だが、当選なら初の女性総理。石破は何回も出て敗れ、此れが最後と。
何と逆転で石破と成る。鳥取初だ相。私的には若い人や女性に出て欲しかったが・・・。
石破は堂々として落着き、立憲でも選出された野田代表との論戦が見もの。
今回の自民選、脱派閥の後で、石破当選と成り、党員もほとほと混乱の末なのだろう。
マスは早速、誰も統一や、裏金に言及無しとしているが、此れからや。
此れからや、で思い出したが、戦時中大連で兵隊さんの慰問と、各戸交代で近所の転山に在る、高射砲陣地の兵隊を呼んで饗応した事が有る。
其の時、我家にも2名来たが、1人がベロベロに酔い、も1人がもう止めろと言うと”此れからや”と。
支えられ帰って行ったが、後で聞いた所では、上官の前でシャキッとして”只今帰りました”と敬礼。我家では、暫く”此れからや”が流行った。
2024年7月20日 (土)
オニユリ
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鬼百合。
陸自、北富士演習場で手榴弾の投擲訓練中、破片が指示役に当たり死亡。
手榴弾の思い出と言えば、太平洋戦争に突入、小学校は国民学校となり、怖い皇国の訓導が組に来た。
もう勉強は碌にせず、何か戦果が上がると、時間中其の事ばかり喋っていた。
校庭での軍事訓練、女子は竹槍だったのか定かでない。大連だが竹など見た事無いが。
男子は手榴弾の訓練。勿論実弾では無く、御手玉。1で持上げ、2で信管を口で引抜き、3で投擲。此れを毎日遣って居た。
大連飛行場では弾運び。皆でひそひそ話乍ら遣ってると、突然現れた将校が”御前等弛んどるぞ!”と一喝、縮み上がった。5年生頃の話。
猛暑々々だが、伊東は比較的過し易いと思ている。然し今日は風無く蒸し、整形外科から帰ったらぐったり。
相撲、大連に来た時、暑く、酸素放出とかでシューッと音が聞こえるのだが、何の変化も無く、暑さにげんなりし乍ら、土俵も見ず”双葉山!”と叫んでいた記憶しか無い。
2024年5月18日 (土)
キングサリ
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金鎖。
日本人は各神社、祭りが好きだと、つくづく何時も感じるが、中でも豪華なのが京都の葵祭でないだろうか。
7月1ヶ月近く行われると。山鉾が高いので、其の度市電の架線が外される。
私は敗戦後、京都の賀茂川沿いの親戚に身を寄せ、1年ばかり居たが、戦後間もないとあって、葵祭と京都御所丈見た。葵祭も今と比べるとまるで貧弱だったと思う。
京都御所は今公開してないのか。何処も同じ様な部屋を外から眺め、殺風景なと思った記憶がある。
賀茂川べりの家からは大文字焼も見た。京都大で火事が有り、野次馬が出たのを、進駐軍のジープが道を開けろと猛スピ-ドで端を突進したのを覚えている。
たった1年だったので、見所多い京都なのに其の暇なく、上、下賀茂神社も近くに在ったのだが・・・。
6日目。美ノ海、北勝富士、湘南乃海、大の里、勝。翠富士、御嶽海、熱海富士、翔猿、負け。
御嶽海の負けは、相手が無敗の宇良。霧島は7日休場。
2024年3月30日 (土)
より以前の記事一覧
- オミナエシ 2023.08.15
- 正金銀行 2023.07.27
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- ツキヌキニンドウ 2023.04.12
- ダイコンにニホンミツバチ 2023.04.05
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- 敗戦間近の思い出 2015.05.23
- 阿川弘之自選紀行集 2015.03.16
- 懐かしの我家 2014.02.20
- 出会い 2011.10.22
- (大連の思い出27終)舞鶴 2007.06.04
- (大連の思い出26)引揚 2007.05.30
- (大連の思い出25)祖母の甥 2007.05.25
- (大連の思い出24)立場変わって 2007.05.23
- (大連の思い出23)ソ連軍進駐 2007.05.20
- (大連の思い出22)B29そして敗戦 2007.05.16
- (大連の思い出21)海水浴と兵隊さんの慰問 2007.05.14
- (大連の思い出20)大詔奉戴日 2007.05.12
- (大連の思い出19)銃後の生活 2007.05.04
- (大連の思い出18)戦争の勉強 2007.05.02
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- (大連の思い出13)飯進上 2007.04.13
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