新紙幣
渋沢の万円、津田の5千、北里の千円札が新しく出る。印刷は静岡工場と。今は独法国立印刷局と言うらしい。
前は、大蔵省印刷局だった。母、姉と私達は、満洲、大連から引揚、京都の親戚の家に一時身を寄せたが、学徒応召で中断していた、帝大経済から印刷局に入った兄が
小田原工場の寮に呼び寄せて呉れた。
満鉄社員で、国境の満州里でシベリアに抑留された父が2年後に帰って来る。母は山北の農家に買い出し。
父も兄も多くを語らなかったが、兄は敗戦後船に乗り水を掻い出す役だったと。
小田原と国府津の間に在る。直近の駅は中間の鴨宮。其処から小田原に在る印刷局の下請会社”東京証券印刷”に通っていた。
今は学校など建ち住宅街らしいが、当時は一面の田圃で、朝、狭い駅からの道を、続々と歩いて来る工員達に逆らって向かうのは苦痛だった。
東京証券では御札を印刷しており、大きな状態の紙差しから、番号印刷、裁断と成る。要するに最後の段階で使えるのだ。
数が合わないとかで、遅くまで全員帰されなかった事が有った。其の後如何成ったかは分からない。
此の工場は何と、小田原刑務所を半分に仕切って造られており、今は如何成ったか。東海道線際だった。
数年後東京の会社に勤めていた時、慰安旅行が熱海だったが、此処を通過する時、あそこに居たんだよと同僚に言ったら、皆吃驚。嘘ではない。
小田原駅海側に降りて、左に行った所だが、グーグルアースで見ても跡形もなく、マンション、スーパー林立だ。鴨宮も一面の田圃だったが、学校、住宅で一杯。御札の民間委託は廃止されたとか。
其後、東京に移転するのだが、私が町医者の盲腸の見立違いで腹膜炎となり、急遽印刷局滝野川病院に入り、一命を取止めた。
此時も道の反対側に医者や看護婦数名で運んだ先の病室は、精神病院を半分に仕切った物で、時々電気ショック特有の悲鳴が聞かれた。
今調べると、近くに印刷局東京工場があり、其の隣に在る”花と緑の東京病院”の前身が印刷局病院だ相。
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