(大連の思い出27終)舞鶴
舞鶴港に着いた。景色は寒々として、満洲の寒さと又違ったピヤピヤと底冷えのする気候だ。収容所に入ると先ずアメリカ兵に頭からDDTを振掛けられた。大広間に1泊。寝具は毛布だけだが1人10枚位迄いいという。
お汁粉をどうぞの放送でゾロゾロと食堂へ入ると、そこにはお椀の底に冷たい汁が1~2cmあるだけだった。皆笑いながらアッという間に啜り終り、又広間にゾロゾロ帰ってゆく。私の見た範囲では文句を言う人は一人も無かった。
ここから母方の親戚の多い京都は直ぐだ。京都でお互いに世話になった誠一さんとも別れ(たしか京都の呉服屋の番頭さんだったと思う。ぴったりの物腰風采の人だった。)祖父母達と我々は、それぞれ別の親戚に厄介になる。
1週間位経った頃、祖父が亡くなったとの知らせが届いた。帰って来る時一寸した荷物も持つのを嫌がってたのは、身体が弱ってたせいだったのかと、これ位持って下さいよと文句を言っていたのが悪かったと皆思った。
母は京都府庁の嘱託、姉は進駐軍の食堂のウェイトレス、私は鉄工所の雑役と3人働いてなんとか食える毎日だった。1年後印刷局に勤めていた兄に呼ばれて小田原に、間もなく父がシベリヤから帰って来た。
その後藤原ていさんの「流れる星は生きている」 で、38°線を超える時の想像を絶する苦難の記録を読み、涙が止まらなかった。それに比べ一人も欠けず再会できた私達は運命に感謝しなければならない。
あの懐かしい大連の家だが グーグルアースで見ると、あの一帯の市営住宅は数階建てのアパートに建て替えられたらしい。"川向こう"は日本人街として保存されているがこれも立て替えるとか。
「かつての日本の植民地の中でおそらく最も美しい都会であったにちがいない大連を、もう一度見たいかと尋ねられたら、彼は長い間ためらったあとで、首を静かに横に振るだろう。見たくないのではない。見ることが不安なのである。もしもう一度、あの懐かしい通りの中に立ったら、おろおろして歩くことさえできなくなるのではないかと、密かに自分を怖れるのだ」。 清岡卓行「アカシヤの大連」より。
大連出身者が里帰り?して、空き地になったかつての自宅の前で写真を撮っているのを見たが、私には出来ない。記憶の奥底にそっと仕舞っておきたい。
蒙古風吹く度想う大連の家で一日掃きいし母を
銃突きて女を出せとソ連兵二階に逃ぐる祖母に迫りぬ
腕時計ないかと手真似のソ連兵腕にはすでに数個着けおり
中国の子に訳も無く脚蹴られ挫きて逃げし敗戦悲し
引揚の港に着きて日の丸の船見し感動戦時に勝る
終
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