(大連の思い出26)引揚
日本人は市の一隅に片寄せられ、中国人に家を明け渡すことになった。それで家財道具を売ることになり、中国人の夫婦が買い付けに来た。二束三文で売り渡した母は相当なショックだったらしく、その後長いこと口惜しがっていた。
斯くして身の回り最低限の物だけとなり、移り住んだ家は1軒の8畳、6畳、4.5畳3間に3家族、12人が住むことになった。耳の聞こえがとても遠くなった祖父だが、ふつつか者ですがよろしくと他の家族に挨拶していた。
幾らも居ないうちにいよいよ引揚は開始された。夕暮れの中を日本人を満載したトラックは相当のスピードで突っ走る。これで大連をこの目で見るのは最後な訳だが、誰も景色に目をくれようともしなかった。港の倉庫に着くと、そこは既に一杯の人で溢れ中に入れない。夜になりシンシンと冷え込んできて、やっと何とか割り込むことが出来た。
ソ連兵に順々に呼ばれ別室へ。その直前威張った感じの日本人通訳が現れ、軍票を持っているものはここで出せ。もし隠したまま後で判ったら全員帰さないという。慌ててリュックから物を床にブチ撒け軍票を取り出すが、混ざっていた写真等を収納する間もなく、次の部屋へと急き立てられ、写真は全部失う事となる。
桟橋に横付けされた引揚船に、掲げられた日の丸の旗を見た時の気持ちは、何とも言いようがない。戦時中あれだけ国家総動員で動いて来たが、この時ほど日の丸に感動したのは無かった気がする。
船が岸壁を離れる時、ソ連兵に混じって肩を怒らす通訳に皆馬鹿野郎!と罵声を浴びせた。約1週間の船旅は船倉での蚕棚のようなギュウ詰め状態で、私はトイレ以外1歩も外に出なかった。そのトイレだが船から張り出して遥か下が海で縮み上がり、私は上陸まで我慢してしまった。
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