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2007年5月23日 (水)

(大連の思い出24)立場変わって

Kung_fu 生産活動が殆ど止まったので皆売り食いになり、我が家も母と姉が服など日用品をどこかの市場に売りに行く毎日となる。その表情は朗らかで、こんな時女は逞しいなと後に思った。中国人の行商がパッタリと来なくなり、代わって日本人が色んな物を売りに来た。もろみはいらんかねーと遠くから良く透る声の人がいた。

中学は皆無試験で全入、私は市の西郊に近い1中に通学する事になる。ある日級友と2人で歩いていたら、あの怖かった小学校の担任と出逢った。何とも言えない弱々しい表情で、元気かと訊いた。後友達は先生は八百屋をやっているらしいと言った。それが先生と会った最後だった。

1人で通学している時、向こうから来た中国の少年3人と擦れ違う時、いきなり足蹴にされ、脚を挫き1週間ばかり休んだ。家の前の公園では、少年達が滑り台の上から威勢良く何か演説の真似をやっている。遠足も来た。皆ワイワイガヤガヤと賑やかだ。戦前の公学堂の時は1人として声を出さず、大人しい子達と思っていた。そんなことは無い、子供は騒がしいのが自然だった。

公園の裏山の木を中国人達が片っ端から切って持ち帰り、終いに裸山にしてしまった。どうも勝手に持って行くらしい。その年の夏雨の後見たことも無い赤茶色の濁流が家の前の道路をドウドウと流れた。保水力が失われたせいとは後で考え付いた。何者かに家の鉄条網の垣根を倒されたが、隣組の人達が集まって元通りにしてくれた。

ロシヤ語の日常会話位知ってないととやりだしたら、直ぐ今度は中国語を覚えよとなった。戦前は中国人が日本語を喋るので我々は何の苦労も無かったのだが。中共の八路軍(パーロー)が便衣姿で来たりするのを、公園でお茶等の接待をした。剣に付けられた赤い布は女の血で染めてあるのだ。等と誰かが言ってたが、八路軍は世界一厳格な軍紀の軍隊だそうだ。

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