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2007年5月 4日 (金)

(大連の思い出19)銃後の生活

Potato 父は奉天から更に奥の満州里(マンチュリー)の満鉄病院の事務として出張になった。満州の西の果て、ソ満国境の町だ。でもそこは自然豊かな所らしく、畑で作った沢山のジャガイモや川で獲れたという大きな魚の塩漬け等を送って来た。

あるとても寒い冬の事、当時のトイレは汲み取り式だが、凍って積み重なりお尻の近く迄迫り、それを時々金槌で砕いては用を足していた。その様子を手紙に書いて送ったら、返事が来た。「各自糞塔努力せよ!」と。

日露戦争の日本海海戦でバルチック艦隊に対戦の時、東郷元帥がZ旗を掲げて「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ!」の名文句をもじったものだ。口数少ない父のただ一つ記憶に残された駄洒落だった。

毎日のように召集が掛かり、兄にも赤紙が来て、隣組中総出で見送られて出征。内地で入営になり、やがて学徒出陣となった。白布に赤糸で1000人が一針づつ縫って結び目を作る"千人針"兵士はそれを腹に巻いて弾除けとした。又手拭、石鹸、菓子、煙草等を詰めた"慰問袋"が盛んに前線に送られた。

隣組では敵機の来襲に備え、各戸で防空壕を掘るよう命令が来た。我が家は女子供年寄りばかりなので、組の人達が手伝ってくれた。人が4~5人入れる程度に地面を掘り材木を渡して土を掛けただけのものだ。夜は灯火管制でカーテンは無論、電灯にも黒布を捲き付ける。少しでも光が漏れていると巡回する組長に叱られた。

飛行機の燃料が足りないとかで、ヒマをどこの家でも庭で栽培、種をヒマシ油の原料として供出した。主食は米不足で殆ど高粱(コウリャン)に代わったが、甘味があって却っておいしかった。大豆の粉で作ったピンズはいやな味で嫌いだったが、これ等は皆満人の食べ物だ。サツマイモの粉で作ったカンコロモチは甘味があってお八つになった。

ラジオや新聞そして街頭には大きな垂れ幕で「鬼畜米英」「撃ちてしやまむ」「欲しがりません勝つまでは」等のスローガンがあふれ"海行かば"の曲が流れる。銃後の生活も国民総力戦へと否応無しに、毎日が今考えると熱病のような進行だった。

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