« イカリソウ | トップページ | ヒメツルソバ »

2007年3月 8日 (木)

(大連の思い出4)橋の下

Car_3 大連の当時の人口は、日本人20万人、満人80万人とされ、市内の住宅の大部分は日本人が占め、4倍の満人街は少い所にひしめき合っていた。

一度用事で母とタクシーで、満人街を通つた事があった。道一杯に大人や子供、立っているのしゃがんでいるのと人であふれかえり、今で言うなら"歩行者天国"さながらだ。運転手は警笛を鳴らし続けていた。

今思うと家が狭いので昼間は外に出ていたのだろう。閑散とした邸宅区域や、午後学校から帰った子供達が道路一杯で遊ぶ、私達の所とは雰囲気がまるで違っていた。一言で言うならそれは貧民窟だ。

毎朝、転山の部落から老虎灘街道を経て、満人が続々と下りてくる。日本の会社等に勤めている人達だったのだろう。その人々の幾人かが公園から流れ出す(雨の時以外は干上がっている)川に架かった橋の袂より下へと入って行き、間もなく出てくるとそしらぬ顔で歩いてゆくのを、窓から見ていて不思議だった。

それが推測で判ったのは引き揚げてから随分経ってからだ。部落にはろくにトイレが無かったらしい。遊んでいてもうっかり橋の下には踏み込めないことを経験していたからだ。日本に帰って当たり前だが橋の下の安全を実感した。

|

« イカリソウ | トップページ | ヒメツルソバ »

大連の思い出」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: (大連の思い出4)橋の下:

« イカリソウ | トップページ | ヒメツルソバ »